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福住廉『美術の裏切者へ』を嗤う
美術手帳(2008年12月号)に、福住廉の署名で所沢ビエンナーレ(プレ美術展「引込み線」)の展評記事『美術の裏切者へ』が登載されていて、そこで「他者の不在」ということが問題とされているのだけれど。これが字数の制限等を考慮しても、明らかに「他者」定義の仕方がおかしい。
まず根本的に間違っているのは、ここでは「他者」という、「自己(私)」に還元する事が出来ない非対称性を、「作家と作品」或は「観客と作品」という間係性から、「見る」という行為の経験として語るのではなく。
「作品」という共通の対象(媒介)の前に於いは相互的である「作家と観客」(※図1)を、「知識人と大衆」(或は「美術家と鑑賞者」)という作品を媒介しない直接的な間係に並置することで(※図2)、「作家と観客」という非対称性が作り出されていることです(「美術家にとっての本質的な他者である、わたしたち鑑賞者は途方に暮れるほかないのである」)。

※図1(クリックすると大きくなります)

※図2(クリックすると大きくなります)
この時、大事なのは、ここでは「作家」と「観客」を非対称性とする為に、両者を相互にする「作品」という共通の媒介が隠蔽されていることです(「美術家」にとっての「他者」が「作品」でなく、「鑑賞者」であると言うことは、同時に「鑑賞者」にとっての「他者」も、「作品」ではないという事)。
ここでは「工作者」という、「知識人と大衆」(或は「美術家と鑑賞者」)を、相互で対称的なものと見なすことが可能な第三項が設けられ。「他者の不在」を、「作品」ではなく、「鑑賞者の不在」と語る(騙る)、学生以下のレトリックが用いられて、「作品」という、「自己(私)」に還元する事が出来ない「他者」との対面・直視することが、自己保身的に回避・隠蔽されているのですが。
「作家」と「観客」を相互で交換可能と見なすことでしか語ることの出来ない、「工作者」という「美術の裏切者」など。所詮、作品を、作家という理解可能な客体に還元することでしか問うことしか出来ない者の、欺瞞でしかありません。

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※関連記事
所沢ビエンナーレ「引込線」
まず根本的に間違っているのは、ここでは「他者」という、「自己(私)」に還元する事が出来ない非対称性を、「作家と作品」或は「観客と作品」という間係性から、「見る」という行為の経験として語るのではなく。
「作品」という共通の対象(媒介)の前に於いは相互的である「作家と観客」(※図1)を、「知識人と大衆」(或は「美術家と鑑賞者」)という作品を媒介しない直接的な間係に並置することで(※図2)、「作家と観客」という非対称性が作り出されていることです(「美術家にとっての本質的な他者である、わたしたち鑑賞者は途方に暮れるほかないのである」)。

※図1(クリックすると大きくなります)

※図2(クリックすると大きくなります)
この時、大事なのは、ここでは「作家」と「観客」を非対称性とする為に、両者を相互にする「作品」という共通の媒介が隠蔽されていることです(「美術家」にとっての「他者」が「作品」でなく、「鑑賞者」であると言うことは、同時に「鑑賞者」にとっての「他者」も、「作品」ではないという事)。
ここでは「工作者」という、「知識人と大衆」(或は「美術家と鑑賞者」)を、相互で対称的なものと見なすことが可能な第三項が設けられ。「他者の不在」を、「作品」ではなく、「鑑賞者の不在」と語る(騙る)、学生以下のレトリックが用いられて、「作品」という、「自己(私)」に還元する事が出来ない「他者」との対面・直視することが、自己保身的に回避・隠蔽されているのですが。
「作家」と「観客」を相互で交換可能と見なすことでしか語ることの出来ない、「工作者」という「美術の裏切者」など。所詮、作品を、作家という理解可能な客体に還元することでしか問うことしか出来ない者の、欺瞞でしかありません。

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